精神に纏う思想と価値観は、誰が寸法し裁断しているか

私は10代のどこかで、精神に纏う思想と価値観を、自分の手で拵えたと思っていた。だが、40歳も近くなって振り返ると、心得違いをしていたのではと思うようになっている。

我々は、強い陽射しが照りつければ薄着をする。寒風吹きすさべば分厚く着込む。精神も、時代の天候に対して同様の行動をとらざるを得ない。そして、人間の精神が、時代に対して自分の手で出来ることと言えば、せいぜい襟を立てるか、ボタンを一つ外して首元を寛がせる程度なのではないだろうか。

戦後の日本において、一般大衆はいつ頃から内面に目を向けるようになったのだろうか。私には、その正確な時期を言い当てることは出来ない。今もなお、内面などちっとも重視されていないのかもしれない。蓋し、この言説が正鵠なのだろうが、そんなことを言ってはこの文書が終わってしまうので、強いて私の主観的観察を申し上げこの文書を続けるならば、バブル世代からではないかと思っている。

バブル期。とにかく誰も彼もが、自分の背丈以上のお金を持っていた。かのマズロー先生の五段階説を俟つまでもなく、人間は物質が満たされれば、次は精神の充実を図ろうとするのが必定だ。

時代は、大人たちが学生を接待して甘やかす程のぽかぽか陽気が続いていた。衣装を取り払って精神を剥き出しにすることも、分厚く着込む必要もなかったのだ。人々はブランド品を買い漁り、手を後ろに組んで印象派を鑑賞し、目を細めて価値の分からない美術品の値踏みをし…つまり思想と価値観を、物質的だけでなく、精神的にもファッションとして羽織る程度でよかったのだ。

それに幸いにも、テレビと新聞と雑誌は仲良く結託して、情報を画一化していた。おかげで、彼らは自分の精神の皮相浅薄さなど露ほども疑わなくてよかった。ちょっと気取ったポーズを取っているだけで、自分を、相手をもいっぱしの人間と思うことが出来たのだ。なんて幸福な時代だったのだろう。

私は氷河期世代だ。文字通り、時代は寒風吹きすさび、凍えるほど寒かった。思春期。誰も彼もが、「やりたいこと」と「本来の自分」を探していた。そんなものはそう易々と見つかるわけはない。だが、せめて自分なりの考えと物の見方を持ち合わせていなければ、いっぱしの人間と思われなかった。よく分かりもしない印象派を、目を細めて見てみるだけで文化的な人間と思われた時代となんて違いだろう。

我々は生きていくため、知性を鍛え、精神にぶ厚い思想を身に纏おうとしていたのだ。だが、ブランド物一つで浮かれていた大人達から、学歴など何の値打ちもないと言われた。精神など無用の長物だと言われた。非正規雇用で、雇用と経済の調整弁になることだけ求められた。我々は、手のひらに息を吐き暖めるようにして、内面を充実させるしかなかったのだ。

もう一度繰り返す。我々が思春期のどこかで、自分の手で拵えたと思っている思想と価値観は、多分に時代の影響を受けている。そして、勘のいい読者ならば、私がバブル期と氷河期、これら寒暖差が著しい時代を対比させた真の意図にお気付きだろう。それは、精神に纏っている思想と価値観は、時代に流通するお金の多寡で決定されるということ。さらに極言するならば、時代から自分の持分として懐におさまる一万円札の枚数で落着するのだ。

新しい世代の精神の衣装

さて、ここからは新しい世代について、彼等が精神に纏おうとしている思想と価値観について委曲を尽くしたいが、私のような世代の者が述懐するには二つの困難がある。

まず第一に、年齢上の理由。厚労省の最新の調査によれば、日本人の平均寿命は、男性で約81歳、女性で約87歳だそうだ。私の世代は人生の折り返しに差し掛かろうとしている。だが、残りのセックスの回数ならば、とうの昔に折り返しを過ぎている。若い頃に仕立てた思想と価値観は、もはや流行遅れになっているし、時代の急激な変化のためだいぶ草臥れてきている。そんな世代の者が、これから多くの精液と悔し涙を流す若い人たちに何が言えるだろう。

それに加えて第二に、氷河期世代は以下のような特殊な事情を抱えている。私の世代は、大人達の事情で社会の道端にポイ捨てされた。それは、経済、社会制度からだけを意味するのではない。バブル期に甘い汁を吸った大人達は、氷河期世代が編み出した思想と価値観を、不景気を理由に黙殺した。ただ暗いといった。全否定した。そのため、無名の優れた芸術家、思想家の或る者は社会の深層に埋もれ、また或る者は、過度なまでに内面に沈み過ぎて未だに浮かび上がってこない。

いつの時代も、人々は情報の内容を自分の頭で判断できない。誰か権威のある者がスポットライトを当てないと存在にすら気がつかない。特に最近では、SNSのフォロワー数、RT、イイネなど明確な数値で計ることに慣れきってしまっている。SNSのカウンター権威主義。相田みつをの下位互換のような格言を哲学として、面白ネタをユーモアとして、あるあるネタを共感や感動として誤認する、知性も精神も貧弱な若い世代。彼らがどうして、この世界の三等席に追いやられた世代の言うことを鑑定できるだろう。

ひとは思春期において、心の深奥の密室に精神的アイドルを飾る。芸術家や哲学者、政治家や企業経営者などだ。或る人は歴史上から、また或る人は一世代、二世代前から。彼等の社会的成功と栄光、精神の苦悩と挫折を通して、今後の人生のお手本にしようとする。氷河期世代からは先に挙げた理由で精神的アイドルが生まれづらい状況にある。バブル世代…バブル世代は…まぁ、いいや。

では、大人達から何も相続できなかった現代の新しい世代、時代と精神のみなし子の世代は、どのような思想と価値観を身に纏おうしているのか?

よく見かける言葉をざっと列挙してみる。フリーランス、価値の多様性、ミニマリズム、一人で生きていくこと、酒やタバコなどの快楽を無用の長物と思うこと等々…。これらの思想と価値観も、例に漏れずポケットに収まる一万円札の枚数で決定される。日本経済は刻一刻と萎んいる。要するに彼らは、金がない時代にピッタリとした思想と価値観を纏おうとしている。

だが、冷静に考えてみて欲しい。これらはただの禁欲の戒律だ。中世、人里離れたところで修道僧が行っていた暮らしを、現代の情報と物に溢れた社会で、地で行こうとするものだ。

さらに、冷静に考えてみて欲しい。我々の俗にまみれた心が、このような禁欲の規律を自らに課すことが本当に出来るだろうか?特に金も精神の充実も、あらゆる物を欲しがる若い世代の心に、このような窮屈な思想と価値観が本当にフィットするのだろうか?

精神に纏う禁欲の思想と価値観、人間の心が奥底から欲しがるもの。これらの寸法のギャップを、ネットの強者達に市場にされている。

我々の肉体には栄養が必要だ。それと同じように、我々の精神も正しい思想と価値観を欲している。精神を健康に保ち、その組織を充実させなければ、我々の心はひ弱になるか、病に冒され、この社会と人生を渡っていけない。

若い世代の飢えた心に、ネットの強者達が言葉を供給する。成功のためのノウハウを供給する。それらは感情の舌触りが良いが、ただ刺激するだけで、精神を充実させる栄養価など含有されていない。ただの哲学的添加物だ。だが、SNSの数値が、彼等の言葉に権威を裏打ちする。精神の一時の飢えを満たす需要と供給の関係だったもの、ただの粗悪な代替品が「価値」あるものと誤認され始めている…。ネットの強者達も、ただの感情の刺激物を供給していると無意識では知っていたのに、社会的成功によって心がフル勃起し、自分たちが「価値」あるものを供給していると勘違いし始めている…。

いつの時代も、古い世代に、または現在流行している思想と価値観に反抗しなければ新しいものは生まれない。彼らの胸ぐらを掴み、殴りかかって、自分の拳から血を流すことで本物の思想と価値感を手にする。

古い世代には、バブル世代と氷河期世代。現在流行しているものは、ネットの強者達。そして、軽いものは浮かび、重いものは沈む、これもまたいつの時代にも繰り返される光景だ。重いものは氷河期世代だ。ネットのカウンター権威主義に慣れきった今の世代から、私の世代は見えない。軽いもの。バブル世代とネットの強者達。彼らには実態がなく、ふにゃふにゃで、攻撃をかわすことだけは長けている。

それでも、今後、日本の意思決定をするのはバブル世代で、新しい世代の心の目を覆っているのはネットの強者達だ。だが、実態のないものをどうやって胸ぐらを掴み、殴りかかればいいのだろう。

それには、氷河期世代が若かった頃に、大人たちから取られた態度をお勧めする。バブル世代とネットの強者達を、無用の長物と断じること。徹底して黙殺すること。キリストやブッダを始めとする古今東西の様々な者が、こうやって幻惑から身を逃れたのだ。

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