バブル紳士と栄えているアカウント達の既視感

ほんの30年ほど前、日本にバブルと言われる時期があった。

土地価格は常に高騰し、人々はブランド品を買いあさり、大人たちが学生を獲得するため接待して甘やかす…こう特徴的な事象を列挙するだけでも、現在から見れば神話か御伽噺か、あるいはディストピアかと思えるが…本当にあったのだ。

その頃、バブル紳士と呼ばれる成金が、雨後のタケノコのように日本中に現れた。私の親戚のおじさんもその一人だった。

どうして今、親戚のおじさんについて書いてみようと思ったかと言うと、ネットでフォロワーが多く、おそらくマネタイズもうまくいっているアカウント達の言動を見ると、あの頃のバブル紳士や親戚のおじさんとダブって見えることがあるからだ。

人間にとっての社会的な時間は、直線ではなく円だ。つまり歴史は人間が滅びるまで無限にループする。ただ、軸や軌道にわずかなズレがあり、そのズレが時代時代で違う表象を作るから、今起こっていることが初めての事のように錯覚する。

ちなみに、バブル紳士たちはバブル経済の崩壊とともに、ある者は夜逃げし、ある者は莫大な借金を背負って没落し、ある者は自殺した。

バブルの記憶

大半のバブル紳士がそうだったろうが、おじさん一家も最初からお金を持っていたわけではない。私が物心ついたときには文字通り、掘っ立て小屋のようなあばら家に住んでいた。私の親からは建設業と聞いていたが、こんなあばら家に住んでいるひとが、どうして何かを建てられるだろうかと子どもながらに思っていた。実際、建設業と言っても現場でゴミ拾いのようなことをしていたらしい。

だが、私の成長とともに、おじさん家族が住む家も大きくなった。あばら家からまっとうな賃貸一戸建てへ、そしてバブルが始まると邸宅と言ってもいい一戸建てを建てた。

私は、おじさんが成功したとは思っていなかった。バブル前夜、おじさんはいつも汚れたニッカポッカに傷だらけの軽トラックに乗っていた。それがある日突然、軽トラックはベンツに変わり、ニッカポッカは革のパンツに変わり、日焼けした首元と腕には金のネックレスと金のロレックスがついていた。私は子どもだったが、世の中で異常なことが起こっていると思った。

あの当時、テレビを見て印象に残っているのは、ブランド品が流行していたこと、日本人が海外のビルや美術品を買い漁っていたこと、ボディコンと呼ばれるピタピタの服を着た女たちが踊っていたことだ。大人たちは皆浮かれていたし、異常なことが日常の世界だった。

そのせいかどうかは知らないが、親戚のおじさんの異常な変化は成功と呼ばれていた。今ほど成功という言葉が出し惜しみされていた時代ではなかった。先にも書いたように。おじさんのような人が、日本のそこらじゅう中に転がっていたのだ。

今もネットでリピートされる光景

あの頃、親戚のおじさんの家に遊びに行くと、知らないおじさん達がいつも何人かいた。おじさんの成功談を聞きに来た人たちだ。どのような経済状況になっても、社会からおこぼれに与れない人はいる。おじさんの成功談から何かあやかろうと思ったのだろう。それから、成功談のあとの酒とご馳走にも。

何かの木彫りと、何が書いてあるか分からない掛け軸がある床の間を背に、おじさんは成功談をひとくさりやった。子どもだったから詳細な内容は覚えていないが、「商売の極意とは」とか「客の心をつかむには」とか、そんなやつだ。あとはあばら家から這い上がった立志伝なんかも。

おじさんは自分の話に陶酔していた。話を聞きに来たおじさん達は、それでも「なるほど」とか「さすがですな」とか相槌をうっていた。

あの頃、親戚のおじさんが私によく言っていたことがある。「お前は頭が良いから、大人になったら俺の会社で雇ってやる。俺と一緒に会社をもっと大きくしような。いい思いさせてやるぞ。ガハハハハ。」

今だから言えると思われるかもしれないが、子どもの私は親戚のおじさんの会社が永続するなんて思っていなかった。繰り返しになるが、あばら家から豪邸に、傷だらけの軽トラが高級車に、泥だらけのニッカポッカから金のネックレスとロレックスに、そんな異常な変化は今だけのものだと。

今ネットで、多くのフォロワーを獲得し、マネタイズも成功しているアカウント達。彼等のネットでの言説を聞いていると、今のポジションが永続するものと思っているように見える。

親戚のおじさんも、ネットで栄えているアカウントも、ノウハウの蓄積と時代状況が合致して成功したことは共通している。技術と時代の恩恵による成功。そこには深い哲学も精神性もない。そもそも、自分にそのような深さがないから、技術を身に付けノウハウを蓄積したのではないのか。

それが成功によって、相田みつをの下位互換のような、浅薄な人生哲学をウットリとネットで披露しているのをみると、人格的、人間的にも優れていると錯覚しているように見える。親戚のおじさんも、信奉者からせがまれ、そのような人生哲学を色紙に書いていた。

これも、これまで何度もリピートされている光景だ。

ただ、私が違うと思うことが一つある。

親戚のおじさんは、時代の恩恵を受けたとはいえ、あばら家から這い上がった。子ども時分の私がバカにしていたのだから、田舎の人間からはもっと見下されていただろう。頭を地面にこすりつけて仕事をもらい、泥水をすするような悔しい思いをして、豪邸と高級車と金のネックレスとロレックスを手に入れたのだ。

時代の恩恵を受けたとはいえ、親戚のおじさんにとっては、紛れもない成功だった。

親戚のおじさんの最後

バブル経済の崩壊とともに、親戚のおじさんの会社は倒産した。

おじさんとおばさんは離婚し、子どもたちはおばさんに引き取られた。

親戚のおじさんは、金策をしたようだが誰も支援してくれなかった。もちろん、おじさんの話を聞きに来ていた人達も相手にしなかった。

社会に出れば、いずれかのポジションを取らなければならない。その地位が金になるからといって、多くの人間に支持されているわけではない。むしろ、大半の人間に見放されるポジションがある。これも、ネットで栄えているアカウントと共通することだ。

私はおじさんが嫌いではなかったから、よく会いに行った。会うたびにおじさんは、「今でかい話があるんだ」とか「これがうまくいけば、また会社をでかくできる」と言っていた。そうして、肝臓ガンになった。

おばさんは、かわいそうに思って最後まで付き添った。おじさんは病床でも「もう一回当てるんだ」と言い続けていた。そして、何リットルもの血反吐を吐いて死んだ。

最後にもう一度だけ。

歴史は無限にループする。ただ、軸や軌道にわずかなズレがあり、そのズレが時代時代で違う表象を作るから、今起こっていることが初めての事のように錯覚する。だから、表象を見誤らないようにしたい。

 

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