「ふるまいよしこ」さんとのメディア論に関するやりとり

ふるまいよしこ、メディアについてかく語りき

昼間、なんとなくツイッターを見ていると、こんなツイートが目に止まった。

ここまで、ぼーっと流し見ていたが、私は身をのりだして「うんうん、そうそう」と共感した。

 

私が共感したのは、ふるまいさんが書いている「現実を淡々と伝えるための記事としての読み物が激減し」、

そして「極端に情緒を刺激するものや、異様に軽いものばかり採用されて」という点。

 

このことは、今後、その主軸がWEBに移るであろうメディアと言論の解決すべき大きな問題点だと思っていた。

 

どうして問題なのか、どうして解決すべきなのかは、

この後のふるまいさんの怒涛の連ツイと、それに乱入した私のツイートを見ながら説明していく。

 

ふるまいさんが語る「メディア倫理」

ふるまいさんは先のツイートに返信するかたちで、こんなツイートをした。

最初のツイートで「極端に情緒を刺激するものや、異様に軽いものばかり採用されて」というのは、

メディア側は「読者が読みたがるから」と言い、

読者側は「そういう記事しかないじゃん」と互いに責任のなすり合いになっているが、

ふるまいさんは、メディア側が「原則をきちっと意識しているのであれば、「提供する側」としての姿勢を正すべき」、

つまりメディア倫理(私はそう理解した)があるじゃないかと言っている。

 

では、ふるまいさんが言う「メディア倫理」とはどういうものか。

それは「メディアが取るべきスタンスとしての原則」。

「読む人が少なくても提供すべき記事は提供すべき」、

それがメディアのあるべき姿勢、メディア倫理だと指摘している。

 

しかし、私はこの「メディア倫理」が日本では機能しないと思っている。

それをこの後のやりとりで展開する。

日本で「メディア倫理」が機能しない理由

とりあえず、私がふるまいさんに返信したツイートを見て欲しい。

上のふるまいさんのツイートにたいして、すこし素っ頓狂な返信をしてしまった。

ここまでふるまいさんのツイートを見ていて、色々と自分の考えが浮かんできてまとめきれなくてこんなツイートをしてしまった…。

 

私が言いたかったことを補足するとこういうことだ。

まず、社会問題とは、すべて関係性の衝突であるということ。

例えば、子どもを産んだあと働こうとする女性が、保育園に子どもを入れられない、そしてそれに対応できない行政との間に衝突が起こり、待機児童という社会問題が起こる。

ここで重要なのは、日本では自分が何かの問題に衝突するまで、社会問題を社会問題として認識していない、関心がないということだ。

どこの国の人間でも、自分に利害がなければ関心など示さないのかもしれないが、よその国はもうちょっと事情が違うのではないだろうか。

アメリカでは出産や、労働、年金などのライフステージで出会う問題に加えて、信教の自由、人種、人権などの軸が加わって複雑になり、生活や人生のあらゆる場面で衝突する問題が多くなる。だから、人々が社会問題に関心を向けざるを得ないのではないか。

それに比べて日本は、単一民族国家(いちお)で人種間の衝突もないし(多少はあるが)、アイデンティティに悩む必要もない。それに、基本的には無宗教で、宗教間の対立もないし、信仰の自由も問題とならない。

このことを説明するのに、先日読んだアメリカの記事を紹介する。

10代のムスリムの女の子の話

アメリカに「Upworthy」という社会問題、時事問題を専門にするニュースサイトがある。

そこで先日、こんなエピソードが紹介されていた。

内容を簡単に説明する。

10代のムスリムの子が、ネットで知らないひとから頻繁に中傷を受けていた。それで彼女は、自分の信仰とアイデンティティを悩み、ヒジャブを外すかどうか父親に相談し、そのやりとりをネットで公開したというものだ。

日本ではイスラム教の信仰、アイデンティティの悩みはピンとこない問題だ。

では、在日韓国人の10代の子が、日本人に帰化するかどうかを父親に相談し、その内容をネットで公開するといった例ならどうだろう。多少イメージできるのではないか。

私の予想では同情するひともいるだろう。

だが、最近の風潮を見ると、さっさと日本人になればいいとか、ていうかその前に国に帰れよとか、日本人になられても迷惑なんすけど、というような意見が多いのではないだろうか?

これは、日本人が現在、在日韓国人や韓国をよく思っていないからというのもあるが、日本には国籍、民族といった問題がなく、この問題を国籍、民族のアイデンティティの社会問題として共感できないからだ。

 

日本での社会問題はほとんどが、出産、労働、税金、年金などのライフステージの問題で、それぞれのステージに上がらないかぎり問題として意識しない。

問題が少ないこと、それはいいことなのかもしれないが、そのせいで本来は考えなければならないこと、注目しなければならないことに気がつかないで、メディアも読者も「極端に情緒を刺激するものや、異様に軽いものばかり採用」することになってしまう。

その結果どうなるか

以前、こんなツイートをしたので見て欲しい。

これに補足すると、「カジュアルな文章じゃないと読まれなくなる」理由として2つ上げらる。

① これはこの記事で何度も言及している、メディア側も読者側も「極端に情緒を刺激するものや、異様に軽いものばかり採用されて」いる現状。こんな文章を書くのに、文学や詩に求められるような高度な文章技術は必要ない。

② 文章は、実は書くツールや媒体からの制約や影響を受けるということ。

例えば、新聞は限られた紙面に多くの情報を掲載し、かつ明晰性が求められるので、意味が明確な二字熟語を多用することになる。

では、WEBではどうか?

WEBでは、紙面に限りはなく、ドストエフスキーやプルースト以上の長文もその気になれば書けるが、もし書いても読まれない。これについては、また別記事で書こうと思うので、今回は少しだけ説明する。

WEBで読まれる文章を書こうとすると、実は新聞以上の制約があることに気が付く。

特にスマホの場合、読む人は目が常に下に行こうとするので、その流れに逆らわない読みやすい文章、ツイートにある「カジュアル」な文章になる。少しでも負担がかかる文章はページからの離率が高くなるので、広告収益に影響する。

では、メディアも読者も以下のことに注意すればいいが、まぁ、無理だろう。

まぁ、これはツイートのままで、こんなひとはひと握りで、多くのひとはそうではない。

日常でよく目にするようになるWEBでのカジュアルな文章。

それが知らず知らずのうちにスタンダードなな文章となると、こんなことになるんじゃないだろうか。

冷静に考えれば、そりゃそうなるだろう。

メディアも、読者も「極端に情緒を刺激するものや、異様に軽いものばかり採用」して読んでいたらバカになるのは明白だ。

そうならないための解答の一つとして、最後にもう一度ふるまいさんのツイートを引用したい。

私なりに要約するとこういうことだろう。

我々には「社会のルールに即して思考」、「社会があるべき理性」で社会問題をとらえ、

メディア側はその「そのあるべき理性的ルールに照らして」、報道すべきことを報道する。

 

そして、これらが行われていないから「極端に情緒を刺激するものや、異様に軽いものばかり」あふれる。

また、今後、メディア、言論の主軸がWEBに移ることで、この傾向はますます悪化し、カジュアルな文章が一般化して読者もメディアもバカになる。そうならない解答の一つとして、「読む人が少なくても提供すべき記事は提供すべき」なのはないだろうか。

最後に、ふるまいよしこさんとはこんな人

実を言うと、ふるまいさんのツイッターをフォローしたのは、このツイートを見る数日前だ。

海外の問題について詳しいひとはいないかと探していたときに、ツイートが面白くてなんとなくフォローした。

だから、ツイッターアカウントの自己紹介を読んで「中国に詳しいジャーナリスト」ということ以上に知らない…。

すいません、ふるまいさん…。(でも今、本読んでます)

興味を持った方は、ツイッターとブログを見てもらいたい。

Twitter : @furumai_yoshiko

note :  https://note.mu/wanzee

ブログ : http://wanzee.seesaa.net/

 

ふるまいさんのツイートを見てから、著作を買って今読んでいる。

中国の報道はプロパガンダだけで、メディアとして興味をひくようなことはないと思っていたが、そんなことはない。

読む人が少なくても提供すべき記事は提供すべき」、確かにそうだと思わせる一冊だ。

追記

今回紹介したふるまいさんのツイートは、ほんの一部だ。

現在のメディアに関して他にも沢山ツイートされており、私もそこから色々と考えることがあった。

今回はその一部を書いたが、まだまだ書いていないことがあるので、近日中にPart.2をお届けしたい。

イイネ!かツイートしてもらえたらめちゃくちゃ喜びます!