「批判」と「非難」の最終論

「非難者Aが、非難したくてこっちを見ている」

今、日本の社会には、誰かを「非難」したくてウズウズしているひとが多い。非難するためにネットを物色し、ちょっとでも落ち度が見つかれば、すぐにマウントをとりにきて、精神をフルボッコにしようとしているひとが。

さらにタチが悪いのは一人でやろうとしない人もいること。

「非難者Aは非難者Bを呼んだ…非難者Bは非難者Cを呼んだ…」という風に、ネットの拡散を利用して潜在的な仲間を集め、徒党を組み、マウントどころかリンチを始める人達もいる。

今、VALUの制度や、そこでのインフルエンサーやプロブロガー達のやり口が色々と物議を醸しているが(私もどうかと思うことがあるが…)、これらを「批判」していると言っているひとがブログで以下のような趣旨の発言をしていた。

「おかしいと思ったことを問題提起しているだけ」

問題提起。いいだろう。どうなのって思うことに正当性があるというなら、侃侃諤諤、とことんやればいい。

だが、問題提起と言いつつ、人格を貶めるようなあだ名をつけたり、プロブロガーが好きか嫌いかのアンケートを取って、同じ感情的クラスターの人達とコンセンサスを深めたりするのは、それは問題提起とは言えない。

「問題提起」を大義名分にした、ただの非難だ。

「非難」で一旗あげようとする人

では、どうして「非難したくてこっちを見ている」ひとがこんなにも多いのか?

これについては以前書いたことあるのでリピートになってしまうが、現在の日本には、個人に承認と尊敬を、もっと大胆なことを言えば愛を与えるシステムがないことだと思っている。

そして、彼ら無名の個人が承認を得ようと、ブログやSNSで必死になって発信しても、ほとんどの言葉はデジタルの虚空のなかに消えていく。レスポンスがないほど承認欲求は肥大してますます心を歪めることになるのだが、大半のひとはそのことに気が付いていない。

恐ろしいと思うのは、尊敬を勝ち取るのではなく、「非難」で一旗あげようとする人がいること。

その矛先になるのはプロブロガーやインフルエンサーだ。彼らの言動については、どうかと思うことも多々あるが、その動機はどうであれ、言葉だけを見れば納得できることもあるし共感することもある。つまり、どうであれ価値を提示している。

それに引きかえ非難者は、非難をするだけで何の価値も提示していない。

それもそのはず。彼らがしているのは、満たされないことで溜まった心の廃液をブチまけているだけだから。

おそらく、インフルエンサーやプロブロガーを頂点とする現在のネットヒエラルキーに不満があり、できるならば彼らを現在の地位から失墜させ下克上を狙っているか、あるいは這い上がって同じ位置に行こうとしているのだろう。

だが、非難者が非難を続けるだけこのヒエラルキーを認めることになり、より強固なものにしていることに気がついていない。

非難者Aが呼べるのは、同じように満たされていないBやCだけだ。感情的に同じクラスターの人間が集まっても勢力にはならない。

肥大しきった承認欲求を満たしたいのなら、対極となる価値を提示して、人々から本物の支持を得なければならない。人々を魅了するということを舐めないほうがいい。

「非難」を利用して一旗あげようとする人

それから、あえて非難されるような撒き餌をして、非難者を呼び込むひとがいる。

案の定、「誰かを非難したくてウズウズしているひと」が食いつき、非難され、それに対して反論することでさらなる撒き餌になり、「誰かを非難したくてウズウズしているひと」が食いつき…ネットを見ていると、このような光景が日常的にリピートされている。

あえて非難の撒き餌をするひとは、トンガった話題を発信することで、PVや知名度を稼いでいるのかもしれないが、止めておけと言いたい。

全方向にファイティングポーズをとることで、本来は味方であるはずのひとが去り、敵ではないはずのひとも好戦的になる。

本人は話題を呼ぶための設定、キャラでやっているつもりだろうが、本当に伝えたいことがあるとき伝わらなくなる。そのとき、ペルソナを剥がそうとしても遅い。ペルソナは確実に肉に食い込み骨にまで達する。強引にとったら顔まで剥がれて、自分が何者であったか…忘れているだろう。

最後に「批判」と「非難」の違いについて

非難について書いてきたが、最後に批判との意味の違いを確認する。

【批判】[名](スル)
物事に検討を加えて、判定・評価すること。「事の適否を批判する」「批判力を養う」
人の言動・仕事などの誤りや欠点を指摘し、正すべきであるとして論じること。「周囲の批判を受ける」「政府を批判する」
哲学で、認識・学説の基盤を原理的に研究し、その成立する条件などを明らかにすること。

【非難】[名](スル)人の欠点や過失などを取り上げて責めること。「不実な態度を―する」

                引用:デジタル大辞泉「批判」「非難」

二つの言葉には、何らかの価値判断、評価が共通するが、その次にとるアクションが全く違う。

「批判」は、「誤りや欠点を指摘し、正すべきであるとして論じる」とあるように、相手の言説への理解、相手への敬意が必要で、エネルギーがいることだ。あえて言うなら、相手への尊敬と、大げさな言い方をすれば愛がなければできない。

私は先に、現代には個人に承認と尊敬、それから愛を与えるシステムが欠如していると書いた。そのため、認められていない、尊敬されていない個人が誰かを非難したくて四六時中ウズウズしていると。

現代の「非難」は、これら承認と尊敬に飢えた人達の、個人的なウップン、心の廃液を思う存分ぶちまける口実になっている。さらに言えば、このような弱者が集合すると「欠点や過失」があれば何をしてもいいという不文律が発生し、それらを犯した個人を社会的な市中引き回しの上打ち首獄門、なんならそのまま死んでくれてもいいぐらいに思っているのかもしれない。

そう考えると現代の「非難」は、承認と尊敬に飢えた人が心を歪めてまで楽しむ唯一の娯楽となっている。

そんな人たちが犇めくネット上で、「批判」と「非難」の意味の違いを提示すること、「非難」の問題を提起することが不毛なこととならないように願うばかりだ。

 

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