人間はすぐに何かに群がりたがる。例えば、学歴とか、権威とか、ブランドとか、そういったものだ。この習性は、人間の心には常に、ぽっかりと穴が空いていることに由来する。人々はこの欠落を誤魔化そうと、人間が拵えた社会的観念を、心に纏おうとするのだ。

私はここで、人間が群がりたがるもののリストに「言葉」を加えたい。言葉には本来、学歴とか、権威とか、ブランドとか、これら人工的観念には備わっていない、心を癒す自然由来の効能がある。だが、残念なことに、多くの人間の心は、道端の水たまりのように浅く、言葉への理解度は、その深さに比例する。こうして言葉は、皮相までの理解、皮相までの用法で、世の中に拡散されてしまう。だが、人々は、そんなことには頓着しない。その治癒力にあやかろうと、とにかく言葉に群がる。言葉はワゴンに入ったセール品のように手垢にまみれ、ヨレヨレになり…、原型は失われてしまう。

例えば、「承認欲求」という言葉。最近ネットで見かけるこの単語は、おもに他人から認められたがっている個人を小馬鹿にするために使われている。そのような使い方をするアカウントは、まるで世界中の人々から承認され、他人から尊敬を受ける輪廻など、とっくの昔に解脱してしまったかのように。「承認欲求」の問題を売り物にしている有名アカウントでさえ、そのように使用して彼らの後援をしているから始末が悪い。

今、人々のポケットにはいるお金が減ってきている。そのため人々は、自分のポケットの寸法にあった思想、価値観、感情に閉じこもり…つまり、価値観が多様化し、世界の細分化が進行している。そのような時代だからこそ、自分をどうやって認めてもらうか、他人をどうやって尊敬するかが重要な課題であるはずなのに、「承認欲求」という言葉は、これら有名、無名のアカウントの手垢にまみれ、言葉が持つ本来の効能を引き出せなくなっている。

私は物書きだ。言葉についた人々の手垢を洗い流し、その本来の意味を引き出す術は心得ている。だが、無名の私では、いくら洗浄しても、言葉の効力は限定されてしまう。

言葉には権威が必要だ。古来より、こと読解に関して、大衆は文盲とさして変わらない。それは大半の人の心が、既製の価値に占有されているからだ。人々が読解と思い込んでいること、それはただの口語の読み書きであり、日常の言葉のやりとりのパターンを場によって使い分けることだ。故に、この言葉の意味はこうなんですよ、この文章はこんな風に読めるんですよと、手とり足とり教えてあげる人が必要となる。

少し前まで、言葉に権威を与えるのは出版社が担っていた。人間や時代の問題を表現できる物書き、既製の価値からとっくの昔に足を洗っている物書きを発見し、彼らが書いたものにお墨付きを与えて世に送り出していた。だが、出版社は商売ベタだ。バブル崩壊後、彼らは不景気を言い訳に、あるいは彼らの精神の浅薄さ故に、真の物書きは黙殺された。ネットの登場以後は、さらにただただ手を拱いている。そのせいで現在、言論の真空のような時代になってしまっている。

その時代の間隙に、プロブロガーと言われる言論の新興階級が大挙した。彼らの書くものを読む限り、深い読書体験も、基本的な文章の訓練さえも経ていない。だが、彼らは、人々の感情を刺激するのに長けている。感情に反応を起こす言葉、手っ取り早く共感を促す言葉…。彼らは、作家でも思想家でも言論人でもなく、ただの商売人だ。彼らが発信する言説は、言論や思想などというものではない。チラシやパンフレットの煽り文句のようなものだ。しかし、言論の真空の時代には、これらただの哲学的添加物が、本当の価値感、本当の思想と思われ始めている。

統計によると、ネットが閲覧されるピークは午後9時以降だそうだ。あまり知られていないが、昼の光は事物や人間の心に暗幕をかけて物事を見えなくし、我々の精神を腑抜けにする。だからこそ人々は、満員電車だの、不味い昼飯だの、上司の理不尽な叱責などに耐えられる。

だが、日没後、事物は徐々に浮かび始める。心の奥底に閉じ込めた秘めた思いや、麻酔をかけた感情などが、背後から意味ありげなことを囁き始める。我々が本当に傾聴すべき言葉が発信される時間、人々はネットを眺めている。そして、プロブロガーやインフルエンサーと呼ばれる人達が発信する言葉の人工甘味料で、さらに腑抜けになる。そして、他人から承認されたい、尊敬されたがっているアカウントを見つけて、「承認欲求」という言葉で小馬鹿にしてマウントを取りに行く。その小馬鹿にする態度そのものが承認欲求の現れとは気がつかずに。

こうして、今日もまた既製の価値から抜け出せず、自分の心を歪め、世界をも歪めて一日を終えるのだ。

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