この記事には【前編】があります。未読の方は、そちらからお読み下さい。

美しい剣【前編】

2017.07.27

3

だが、男と彼の小さい息子は湖には辿り着けない。街を出ることさえもできない。

それは人間のせいだ。男が通りに出ると、日常を動かす群衆の手と足が止まる。ある者は店に並べる商品を置こうとする姿のまま、ある者は小動物を虐める姿のまま、ある者は肩がぶつかった文句を心の中で呟くのをやめて静止する。手をつないで男と歩く小さな息子は、剣の形をした石を見る。恐らくこれのせいだろうと、小さな息子は思う。

男は人々の心の異変には気がつかない。もともと興味などない。男は地平線よりも遥か彼方にある湖だけを見つめて歩いて行く。

街の人々の息づかいが激しくなる。急激な呼吸運動が、人々の心の奥底にある未知の何かを破裂させる。若い女が手で口をおさえて涙を流し始める。勤めに行く途中の男が頭を抱えて膝をつく。老人は安らかな顔をして空を見上げながら自分の胸に刃物を刺す。昨日まで、自分たちと同じ食物を摂り、同じ衣服を着ていた男に、人々はそれぞれの表象は違えども、今まで意識の表層にあげたこともなかった秘かな姿を思い思いに投影する。そのせいか、通りという通りにはますます強烈な異臭が漂い、街は霧がかかったようになる。男は小さな息子の手をひきながら、「湖が見えづらくなった」と眉間に皺をよせて呟く。

群衆を掻き分けて、男を救世主と思った一人の盲者が男の足にしがみつく。男は歩く速さをゆるめない。盲者にはかまわずに、ひたすら湖だけを見つめて進んでいく。男は、私の目を開かせてくださいと哀願する盲者の声は聞こえている。男には盲者の目が見えない理由が分かっている。盲者だけではなく、人々の涙や、血や、叫び声の原因が分かっている。街の住人達は、自らなりたいものになったのに今さら何を言っているのだろうと、男は思う。

盲者は執拗に哀願を続ける。男は腰から剣の形をした石を抜き、盲者を蠅のようにはらう。すると、盲者の目が開く。盲者は、目が開いたと歓喜する。何もかもが見えると歓喜する。だが、開いた目で、太陽に照らされた世界の実相を見た途端、盲者だった男は発狂する。目から噴水のような火柱があがる。瞬く間に灰になる。

風に吹かれた灰を、小さな男の子は手のひらに乗せる。小さな男の子は、それを見ながら可哀そうだと思う。でも、仕方のないことだと思う。小さな男の子は、パンパンと手をはたいて灰をはらう。

この奇跡を目の当たりにした人々が、次々と男のもとへ群がってくる。男の足や腕にまとわりつき、思い思いの悩みや願いや悲しみを訴える。男は街の住人達の哀訴は、結局は一つのことだと思う。男は、救世主ではないので比喩を用いない。箴言も使わない。湖に辿り着き、自分の魂に課せられた義務を果たしたいだけだ。男は、剣の形をした石でこれらの人々の心を五月蠅く思いながら批判をこめて切り裂いていく。その度に、病を患った者が癒える。口がきけなかった者が言葉を口にする。手が萎えていた者が活動を始める。男が行う奇跡が、風よりも早く街中に広まる。

小さな男の子は、奇跡が起こったひと達の行く末を見ている。それらの人々は普段の生活に戻った途端、再び病を患い、口がきけなくなり、手が萎えてしまう。街自体が変わらないのだから当たり前だと、小さな男の子は思う。

それでもたくさんの人々が、永遠と男のもとに群がってくる。男は湖への道を作るため、とにかく街の住人達の心を、剣の形をした石で切り裂いていく。だが、男の行く手を阻む群衆の壁は崩れない。男の髪と髭はボサボサになる。男の体は痩せ細り、しだいに骨と皮だけになっていく。剣の形をした石から、血の雫が何滴もぽたぽたと道に落ちる。

4

男が湖に向かい始めて千年目を迎えた新月の夜。通りには誰もいない。男は、小さい息子の手をひいて湖に向かって歩いて行く。

小さな男の子は、歩きながら父の顔をちらちらと見ている。父の顔が見えるのは、家の窓からこぼれる明かりに照らされたときだけだ。時折、家族団欒の笑い声が聞こえる。道には、二人の足音だけが響いている。男は、喉が燃えるように渇き、猛烈な空腹を感じている。少しばかり風が吹くが、ただ異臭を移動させるだけだった。風はその他には何も運んでこない。小さな男の子は、父が少しばかり感傷的になっているのに気がついている。

二人が誰もいない真っ暗な道を歩いていると、どこからか「街を出ることは出来ないぞ」と言うシワ枯れた声が聞こえた。

男は足を止める。辺りを見まわすと、一人の老人が濁った目で男を見ている。

男は「そんなことはない。その証拠に…」と言って湖を指さそうとするが、新月の夜、湖は見えない。

何かの病気で皮膚がただれた犬が一匹、二人のあいだを通り過ぎる。

男は、小さな息子の手をひいて再び歩き始める。

犬は老人に近づき足の匂いを嗅ごうとする。老人は犬を蹴って追い払う。「あんたのために言ってるんだよ」と言う。

男は無視して先に進むが、老人の言葉は男の心の後を付いてくる。

男は街を出ようとしたことを少しだけ後悔する。本当に湖なんかあったのだろうか。目覚めたばかりで寝ぼけていたのではないか。あの猛烈な臭気をなんとか我慢して、彼等が着ていた服と同じものを着て、彼等が美味しそうに食べていたものを口にしていれば、こんな辛い思いはしなかったのではないか。

老人の言葉は、なかなか男の心の背後から去らない。意味ありげなことを呟き続けている。

男は来し方を振り返る。様々なことが記憶の遠近法をごっちゃにして思い出される。自分が悩み続けた問題。自分が傷つけられたこと。自分が傷つけたこと。それから、自分が死んでも、自分が悩み続けた問題は世界が滅んでも解決されず、誰かがまた同じように悩み続けて苦しむ。世界は何も変わず、きっと何もないのだろう。

総てのことがどうでもよくなりそうになる。そう思うと、男は何かに思い至りそうになる。

明け方。男の足が止まる。手から、剣の形をした血まみれの石が落ちる。男は前のめりに倒れる。

小さな男の子は、街の住人達の一日が始まる前に、父の死体を通りから近くの空き家に運ぶ。空き家には、埃が雪のようにつもったテーブルがある。小さな男の子は埃をはらうと、父の死体をテーブルに横たえる。

小さな男の子は老人が言ったように、街から出られなかったことを知っていた。でも、父が湖を見たのなら、湖は父の中にあるのだと思う。小さな男の子は父の死体のまえに座る。父の死体がこの世界から風化するまで待つ決心をする。

5

…夕方、小さな男の子は本を読み終える。

それから、父の死体を確認するが、テーブルのうえにはやはり、白い粉末がわずかに残っている。小さな男の子は大切にしまっておいた、剣の形をした石を取り出し、父の死体のうえに置く。

小さな男の子は、今夜は寝台で眠らない。テーブルの上で腕を枕にする。頭を腕に乗せて、足をぶらぶらさせながら父の死体を見つめる。

部屋が夜につつまれ、小さな男の子の意識がだんだんと薄れていく。小さな男の子は、父の死体がわずかな粉末だけになっても残っていたのは、父の記憶を持っているのが自分だけになったからだと気がついていた。だから、明日の朝には父の死体が完全に消失する。父の死体から湖が湧き上がり、剣の形をした血まみれの石は、湖の綺麗な水に洗われ、本物の美しい剣となって湖の底に沈んでいく。

小さな男の子はそう思うと、足をぶらぶらさせるのをやめる。大きな欠伸をする。そして意識が消える瞬間、父におやすみなさいと言った。

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