いつもの時間に郵便配達夫が小説家宛ての郵便物を持ってきた。ドアをノックする音で小説家は原稿用紙から顔をあげた。

リビングでは女がソファに寝そべってテレビを見ながら笑いころげている。郵便配達夫はニヤニヤしながら女を見ていたが、女はソファから起き上がるとテレビから目を離さずに郵便物を受け取った。

女が街の異邦人である小説家の情婦になったという醜聞は、すでに街中の噂になっていた。それでも、街の健全な住人である女は、心の鎧戸を閉ざすことも開け放つこともなく、人々の悪意も自分の黒いものも、いつもほどほどの風通しの好さを保っていた。女はやはりテレビから目を離さずに、ごくろうさま、と言うとドアを閉めた。ドアを閉めると、テレビでは若い芸人がつまらない冗談を言い、女は大笑いをした。

小説家は筆を置くと、椅子から立ち上がり窓に凭れた。

連夜のカフカ的願望夢から構想した小説を書き始めて数週間が過ぎている。原稿用紙に筆を入れてからも夢は続いていた。毎晩の夢の中で、世界との関係性を受け入れ自ら虫になる手術を受けたり、この世界で最も醜い女と同棲を始めたり、祝祭的乱交パーティで生贄として殺され幸福とも言える近似値に達したり、心の底を思うさま失禁していたせいか、毎日、ペン先からは血と涙が順調に零れていた。

窓の外を見ると、ホテルの向かいにある、廃線になった駅のホームには今日も誰もいなかった。

「郵便、ここに置いておくわよ」

女はいつものようにドアをノックせずに書斎に入ってきた。

廃線になった駅の前に、自分のことだけを見つめながら歩いている、中年の男と若い女が近づいていた。二人は駅が廃線になったことも、そして、これから先も街に列車が来ないことも知らなかった。中年の男は仕事のつまらない失敗で上司に小言を言われたことに腹立ちながら、若い女はこれから買いにいく靴の色を迷いながら、廃線になった駅の前でぶつかった。それから、二人はしばらく歩き、相手が見ていないことを確認して振り返り、互いに同じ言葉を呟いた。

それを見ていた小説家は、廃線になった理由が分かるような気がした。

「今日は、列車は来ないのかい」

時刻は正午。生まれつき死者である街の住人達は昼食を摂りながら、今日もまた一秒ごとに死んでいた。若い者も年寄も、とうの昔に頭の活動は停止しているのに、顎だけはやたらと活発で、弁当や定食や他人の悪口を、牛のように咀嚼していた。

小説家は女に、「死んでくれないかな」と言おうと思った。それから、「君だけじゃなく、街の全員が死んだら列車が来ると思うんだ」とも言おうと思ったが、女は振り返らずに、「来るわけないじゃない」、と言って書斎から出て行った。

小説家は窓から離れると、スタン・ゲッツのアルバムをかけてソファに横になった。時折、隣の部屋から女の笑い声が聞こえた。

女は毎日、こうしてテレビを見て大笑いをしたり、通俗ドラマを見て娯楽用の涙を流したりして、夜の性交までの時間を過ごしていた。女の顔は、小説家の心の底に眠る何かを投影させるような元型的な美しさを持っていたが、他の街の人々と同じく、その心は水溜りのように浅く、また水溜りのように濁っていた。

小説家はしばらく虚空を見つめながら、今日もう少し筆を進ませたら小説は完成する、そうしたら、また明日から街の住人達の生活を眺めて次の小説を書くための新しい傷口が開くのを待たなければならない、そんなことを思っていたがやがて眠りに就いた。

午後、テレビに飽きた女は大きく伸びをしてソファから起き上がり窓から街を見渡した。昼食を終えた街の住人達は日々の糧を得るため働き始め、街路では、老人がつまらない自尊心を守るために犯してきた罪も忘れて口をぽかんと開けながら日向ぼっこをし、それから主婦達が誰それの悪口を奪い合い、公園では、子供たちが、泣き叫ぶ白痴の子に心の廃液を捨てるため、歯を剥き出しにして笑いながら追いかけまわしていた。

街は白湯のように生暖かくなり、人々の大口を開けて放つ欠伸から、消化不良の昼食のエキスや、醗酵した日々の願望などが立ち昇った。空は雨模様になると思われたが、どこからともなく風が吹いて、これら残飯のような澱んだ空気を運び去ったが、空はどんよりと曇ったままだった。

「ありきたりな日だわ」、女もまた大きく欠伸をした。それから今夜のための淡い休息をとるためにソファに戻った。

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